これがなければもっと幸せかも

私のやっかいな障害の二つ目は視力の低下よりもずっと重荷になってるもので、正し
い病名もつかないんだけど(だから理解しづらいんだよなぁ。)体全体がガタガタ震
えると言うか安定しないと言うか自分でも表現が難しいなっていつも思ってる。ぴっ
たり当てはまる病名がないんだけど、似たようなところで言うと「不随意運動」とか
「震顫」っていう感じかなぁ。脳に何らかの異常があったり、事故なんかで損傷を負
うとこういう障害が現れてしまいます。だけど私は先天性でもないし、後天性でもな
い、衝撃を受けたこともないから本当にやっかいだし、訳わかんないよ〜。いつ頃か
らかって言うと私は全く気付かなかったんだけど小学校5年生の時、後輩の女の子が
「首振ってる。」と言ったことから「はて?」と思って意識し始めたのが最初でした
。ということでこの頃はまだ自覚するほどひどくなかった、人から見ても重視しない
とわかんない程度だったってこと。書く文字がきたないだけじゃなくってなんとなく
波のように見えたのはこれが影響してたんだなって後でわかった。それから度合いが
増して自分でも飲み物をコップで飲めなくなったり、お箸で食事がとりづらくなった
り、細かい作業はなんにもできなくなってしまって、ますます小学校ではバカ扱いさ
れるようになったんですよ。この症状があるばっかりにできずじまいのこと、やる気
にならないことが増えちゃいましたねぇ。情けないって言われてもかまわない。もし
かしたらこの頃努力していればできたのかもしれないからね。何ができないか、コッ
プじゃなくても液体を注いで持つという行為ができない、小っちゃいキャップを閉め
るという行為が辛い、洋服のボタンがかけづらい、刃物を持つとぶれるから今にも手
を傷つけそう、こういうことがあるからなかなか料理はやる気にならない。何度とな
く手を切った。「誰でもあることだ!」と言われればその通り。だけど私の場合、出
血はできる限り避けないといけない。それは三つ目の障害があるため。刃物だけなら
まだそれを使わない方法があるけどキッチンに向かうことも私にとっては恐怖なんで
す。ぶれてしまうことに加えて感覚まで障害を負っているらしくって普通ならちょっ
と触れるだけで確認できるものが私の手では確認できないんですよ。コンロでも電磁
調理器でもいいんだけど、火がついていてジュージューと音をたててるフライパンが
あるとして、中を混ぜるために菜箸とかフライ返しとか使おうとするとまずそれらを
持つ手が何かの禁断症状みたいに無駄に動くからねらいを定められない。うまくいっ
て中身に到達しても感覚が鈍いから混ぜてるのか混ぜてないのか、もっと言えば当た
ってるかどうかもはっきりしない。料理って慣れたらカンでできるものだけど、それ
ってやっぱり見えなきゃなかなか難しそうだし、見えなくってもしっかり働く手があ
って、手に伝わる感覚がなきゃかなり難関だと思うんだけどどうでしょうねぇ?お裁
縫だってトライはしたんですよ。だけど針を持ってるっていう感覚すら握ってるうち
に見失っちゃいますからねぇ。指導してもらったこともあるんだけど「できそうにな
いですね。」って言われて他人に頼むことにしましたからね。努力するのは大事な気
持ちだけどやりたくってもできないこともありますよね。他人から見て「やる気ない
なぁ〜。」とか「試してもないのにあきらめるな!」って思われちゃおしまいで、手
を貸してくれたり、応援してくれてた人達も離れていっちゃうだろうけど、そうじゃ
ないから逃げてはいないと思ってるんだけどまだ自分にあまいような気がしないでも
ないんですよね〜。教えてできそうなら私の母は将来のためにやらせたって言ってた
な〜。だけど見てる方がハラハラするらしくって、手も切りそうだけど大火傷しかね
ないって怖いから教えなかったって言ってたな〜。そりゃそうですよ、盛り付ける時
にフライパンとかお鍋とか持ち上げようもんなら中身が飛び出しちゃいそうになるん
ですから。汁物はもっての他ですよ。盲学校でお味噌汁を作った時、おたまで掬おう
としたんだけど、先生がちょっと手を添えていたけど自分の手におもいっきりできた
てのお味噌汁をかけちゃってしばらく痛かったこともあったんで。キウイの皮むきし
ようって言われた時は手は無事だったけど皮がどこに残っててむけてるのかどうかさ
えわかんなかった。気づいたら手の中にはなんにもなかったんですよ。これじゃ救い
ようがないでしょ?だからお料理はみんなで楽しくおままごと感覚でいいかげんにや
るんならいいんだろうけど、少なくとも今はやる気にはならないんですよね〜。危険
がないんなら迷いながらでもやるんだけど、体は労わらなきゃいけないものだからけ
がをしてまで頑張らなくてもいいかななんていう気持ち。これ以上体を痛めたくない
から。全身がこういう症状に侵されてるから、歩くだけでも苦痛があるんですよ。ふ
らふらするんでなんにも障害物はないのにつまづいたり、こけそうになったりして、
一緒に歩いてくれる人がびっくりすることもあるんです。意味なくふらつくから調子
悪いのかなって気を使わせちゃうことがあって私としてもこの体に不便を感じずには
いられないんですよね。こんな風だと誰かの目の前で食事するのも気がひけちゃう。
食器を持って食べらんないから、お行儀悪くなっちゃうし、きれいにいただけないか
ら「気にしないでね。」って言ってくれてもいい年した女としては恥ずかしくってね
ぇ。長年続いてる症状だけどこういう場面ではいまだに慣れませんねぇ〜。それと悔
しい思いもいっぱいしますよ。私は按摩師の資格は持ってるけど、本当は理療科の教
員になろうかなって考えてたんですよ。だけど理療科教員って鍼灸の資格も持ってな
きゃ養成所に行く資格はないんですよね。この手じゃとても無理だって適性検査でひ
っかかって鍼灸の勉強はできなかったから目標を失っちゃったんですね。そして失明
する可能性があるんなら、点字の技術を取得するべきだと思うんだけど、点の数すら
触知できないから問題外でね。めんどうだからやらないんじゃないんですよ。やりた
くって一様手はつけたけど誰が見ても「これは無理だな。」っていう次元の話だから
どうしようもないんですよねこればっかりは。なんか泣き言を書いちゃったような気
がするけど苦労してるのはもちろん私だけじゃないですね。体のことじゃなくても何
かができなくて願いが叶わなくって辛い思いをしている人はたくさんいますよね。だ
けど強い人はどんなに落ち込んだって生きてますよね。「努力」とか「頑張る」って
目の前のもの全てに必要なわけじゃなくって、手を伸ばしたら届くところにあるもの
や、時間と自分に痛みのない程度の体力を使えばできること、そんなものは結構足元
にあって気づいてないだけなのかもって私は思うようになったんだけど皆さんはどう
思います?できないことがあって悔しい、やりたいのにできなくて心が痛い、なら、
その思いを消せるくらいの「挑戦心」を持って、泣きそうになっても、うまく進まな
くてイライラしても、障害に侵されていても個性を出して他の誰にも真似できないこ
とをやってみようよ!悔し涙は流しても、ただのナキムシにはなるなって自分に教え
るためにもやってみよう!できた時の喜びは生きていく中でとっても大きな財産にな
るでしょう。健康な人にしかできないことがあるんなら私達障碍者にしかできないこ
ともあるんじゃないだろうか。それを見つけて手に入れることができるのは、他の誰
でもない。今、やろうと決めた自分なんだと今の私の不自由な体が教えてくれたよう
な気がしてる。