一人暮らしを選んだ理由

一人暮らしを始めたきっかけについて書きますね。 気が付けばもう3年以上前にな
るんですけど、母が66年目にして病に倒れました。 それまではちょこちょこと「
しんどいな〜。」とか「胃が痛い。」などと言うことはあったんですけど、まさか大
病のサインだとは誰も予想しませんでした。 ブログにもちらっと書きましたが、し
っかり者でみんなに頼られて、何よりも私のことを第一に育ててくれた立派な母です
。 今じゃ「娘をあまやかしたよな〜。」と思わなくもないですが、私にとって世界
一必要であまえたい人です。 3年前の7月頃、なんだか疲れやすくなったなと母自
身も私も感じてました。 もともとはスマートなタイプで背も高いんです。 ですが
急に下腹部がぽっこりしてきて、横になる時間が増えたんです。 私は母が調子が悪
くて寝ている姿を見たことはありませんでした。 ちょっと気にはなりましたけど、
なんにもできないまま数日経ち、ある朝、最近つらそうな母の手伝いをしようと思い
、洗濯物を干していた時、部屋の中で干してたんですけど、母が座っているのも辛い
と床に伏せてしまったんです。 まともに口もきけなくなったので、病院に連絡して
状況を伝え、早急に検査してほしいと訴えて、父に車で連れて行ってもらい、私は父
からの連絡を家で待っていました。 数時間して「入院が決まった。」と連絡があり
、母は私を産む時以来の入院となり、父と私の2人暮らしが始まったんです。 母に
頼りっきりだった父と私はあまりうまくいかず、つまらない日々が続きました。 こ
の時ほど母のありがたさを感じたことはありませんでした。 私もそうですが、父も
家のことは何一つできない人で、変な言い方かもしれませんが、食事の用意、お風呂
の用意など一度もやってはくれませんでした。 私が下手なりに用意したおかずも気
にいらないのでしょう、食べたことはありませんし、洗濯物も干したり入れたりした
ことはありませんでした。 私は我慢の日々を過ごしました。 母も病院で戦ってい
たんです。 母は癌に侵されてしまい、かなり進行していたため、開腹手術を受けた
のです。 手術直後の母は別人に見えてしまい、声こそ出しませんでしたが、涙があ
ふれて止まりませんでした。 入院中はまだよかったのですが、それからの方が大変
でした。 癌治療は程度によりますが、母の場合は長期間の点滴治療が必要でした。
 週1回の通院が基本なので、入院していた病院だと毎週父が仕事を休まなくてはな
らないため、転院し、私が通院で行き慣れている病院へ通院させることにしました。
 理療を学んだ私はほんのわずかですが、ドクターの説明や、薬剤師、看護士の使う
用語を聞き取ることができます。 そして病院のシステムも把握していましたので、
治療が一段落つくまでは、私が世話をすると決めて、通院に付き合いました。 両親
共に総合病院に行った経験がなかったので、何が必要で何を訴えるべきなのか、知り
ませんでしたので、受付で母の経過と治療を必要とすることを説明し、ドクターに母
の経過や最近の状態、注意点など、話したり聞いたりするのは私の役目になりました
。 状態がなかなか回復傾向になかったので、そうなると使う薬は変わります。 種
類も時間も、量も違うので、それらを聞き、正しいかどうか再度確認し、記憶して家
で飲む薬の名前と量と回数と作用と副作用を父に伝えて母に飲ませてあげるように言
っていました。 薬というのは使い方を間違えると恐いものです。 重篤な患者には
眠る体力が不足しますので、眠れないと訴える患者には睡眠薬が処方される場合が多
いです。 母もそうでした。 ですが安易に長時間型のものを処方されて、続けてい
たのですが1か月もたたないうちに、様子がおかしくなり、意識障害と言うか認知症
に似たような状態になり、手に負えなくなってきたので、ドクターに訴えたところ、
やはり睡眠薬が強すぎるという診断を受け、しばらく使わないようにしました。 若
干改善した頃、精神的な落ち込みがあると言われ、心療内科へも通院を始めました。
 母にとっては初めての病であり、それがあまりにも大きいため、体力面の不安もあ
りますし、治療にかかる費用への不安など、いくつもの荷を抱えたことになりますの
で、病名は付きませんが「不安神経症」のようなものでしょう。 心療内科へも私は
付いて行きました。 記憶があいまいな母に一人で行かせることはできません。 医
師に母が入院してからそれまでの経過を話、より良い治療を受けなければならないか
らです。 ここの医師も「睡眠薬は飲まない方がいいでしょうね。」と判断されてい
ました。 しかし、人間は規則性を持って休息をとらなければなりません。 そこで
、「気分安定薬」と言われるものがあるのです。 睡眠を促すというよりは、日中に
少しでも体を動かそうという気分になれるようにする作用や、食事をとるという活動
を促すもので、種類はいくつかあるので、どれが適しているかを判断するのが心療内
科医です。 母は2種類の安定薬を処方され、飲み方は父に伝えて過ごしていきまし
た。 大変長い月日がかかり、半年で終わる予定だったのですが1年半かかり、通院
治療はやっと終わったのです。 前置きが長くなりましたが、この1年半の間に予想
だにしなかったことが続いたわけで、母を頼れなくなったことが一番の理由ですが、
事が今までどおりに運ばないので、父は徐々にイライラするようになり、倒れて死人
のような様相でいる妻に優しさを注ぐこともなく、見て見ぬふりのことも多く、家族
の会話が減り、3人で笑っていた日々はどこへやらという月日の中で部屋にこもり、
(ここから逃げたい!両親といても息苦しいだけだ!私はもうここにいなくても・・
・)と考えるようになっていたのです。 しばらくはこの気持ちは隠したままで、母
の通院が1か月に1度でよい程度になったことを確認して、私の新居を探すようにな
ったのです。 こうなると一人では困難なので父と数軒回って今のアパートに決めて
手続きなどは父がやってくれました。 そして去年の4月から一人で生活していると
いうわけです。 ここまでにはもっと複雑な問題やいきさつがありましたが、そこま
では書きません。 今は別に両親と仲が悪いわけでもなく、会いたくないわけでもあ
りません。 いろいろなことはあって、苦しかったのは事実ですが、両親も苦しかっ
たわけで、他人にやつ当たりするわけにはいかないので、娘である私につめたくなっ
てしまったのではないか、それを私が一人で全て受け止めているように錯覚していた
のではないかと今では思います。 現在は母本人は大変しんどそうな様子でいますし
、一度記憶障害に陥ってしまった後遺症なのかまた思考能力の低下が明らかになって
きています。 ですが、検査上では悪化することもなく、数か月に1度の通院で済ん
でいるようなので、今のところは特に心配はいらないようです。 父は多少のサポー
トをしているようで、夫婦らしくやっている様子です。 私もたまには連絡して、様
子を聞いて一安心してますし、両親も私が元気そうにしているのを聞くと安心できる
ようです。 そしてやはり生きている限り親にしか頼めないこともありますから、私
のアパートまで来てもらうこともあります。 母もしんどい体で娘のために来てくれ
ることもあります。 両親はどうかわかりませんが、役にはたたなくても(ひどい言
い方だけど)生きているだけでなんとなくありがたい、床に伏していても感謝の気持
ちがわいてくる、そんな存在が《両親》だったり《子供》だったりするのかなと感じ
るようになりました。 夫婦は所詮は他人ですから簡単に離れられるでしょう。 友
達も縁を切るのは簡単でしょう。 ですが血縁関係であるということはこの世で一番
深いつながりであり、一時嫌がって離れたつもりでも決して切れない何かで、目には
見えない何かでいつまでもつながっているのでしょう。 先ほど「所詮他人だ」とい
う書き方をしましたが、血縁にあることを強調したかっただけで、人と人、同じ生き
ものであるならば、心を通わせることも可能でしょうし、優しさを言葉に出して、思
いやることも可能でしょう。 相手がどんな状態であれ、見えるものだけで、良いか
悪いか判断するのではなく、人という生きものが持つ見えない何か、それは触れると
あたたかいかもしれない、やわらかいかもしれない、人は、本来持って生まれたその
ようなものを表現するのが下手なのかもしれない。 自分にもある、自分以外の人に
もある、素晴らしいものをお互いに感じ合えるように、〈生きている〉ことに一生懸
命になりたい・・・