母にありがとう

母は今69。 大病してからはすっかり老いてしまったけど、以前はとっても強い母
だった。 私は記憶にないけれど、少しでも母と離れると「お母さんのところに帰る
〜!」って泣いてたらしい。 だから父がたまの休みにどこかへ連れて行ってやろう
と私を抱いて行こうもんならわんわん泣いて困らせてたみたい。 そういう状態(さ
すがに泣きはしなくなったけど。)何年も続いてた。 父が嫌いだったんじゃなくて
、やっぱり一緒にいる時間が長い分、くっつきやすかったのかな? 母はいろんな面
で尊敬できる人☆ まず火事は全部完全と言ってもいいくらいやる人だった。 朝は
5時頃起きて父と私の朝食作りにとりかかる。 同時進行で洗濯機を回し、料理の具
合いを見ながら新聞を取りに出たり、植木に水をやったりと効率よく動く母で、父が
起きて仕事着が用意されてないことは一度もなかったし、食事なんて座ったらすぐ食
べれるように準備されてた。 私は服ぐらいは自分で用意して着てたけど、食事は父
とは違う私の好物が朝から並んでた☆ 父と私が食べてる間に洗濯物を干したり、調
理道具を片づけたりしてた。 母は一人になってからかるく食事をとるだけで、後は
毎日部屋を掃除して、お風呂とかお手洗いも。 それから私が幼い頃はパートに出て
た時期もあった。 お買い物には一日おきに行ってた。 車に乗れない人だから自転
車で近くのスーパーにも行ってたし、数キロ先まで行ってたこともあった。 だから
家事全般は母がやってくれてたから、私はできそこないになってる。 料理にしても
プロとは呼べないだろうけど、母の作ったものに感動しない人はいなかった☆ 盲学
校に遠足なんかでお弁当を持って行った時も誰のものよりも母の作ってくれたお弁当
が一番だって自信持って言えるくらい☆ 実際私のお弁当を見て「すご〜い!」 っ
て言われてたしね☆ 小学生の時も遠足って言ったって全く楽しくなかったけど、ず
る休みしないで行く私のために立派なお弁当作ってくれてたからお昼の時間にひやか
されることはさすがになかった。 だけどせっかく作ってくれたお弁当も帰りには全
部吐き出しちゃうから自分も気分悪いけど母に悪いっていう気持ちと両方で家に帰る
時は悔しくて悲しかった。 お裁縫も上手で小学生の時の運動会で使うもの、バトン
クラブだったからミニスカートもそうだし、手旗信号をするための旗とか母に縫って
もらったけど、手縫いにもかかわらず、縫い目が繊細でこれも誰のものよりも奇麗に
出来上がってた☆ 私はこんな母に頼りっきりで今でも忘れられないことの一つに六
年生の家庭科のことがある。 担任から「母の日が近いですね。お母さんにプレゼン
トを作りましょう。」と言われ、いくつか選択肢がある中でどれか一つ選んで家庭科
の時間に作ることになった。 でも私は視力もかなり落ちて来年からは盲学校に行く
ことにしてたくらいだし、体にも異常が出て器用なことはできなくなっていたので、
家庭科の時間になんにもできずじまいでいたことがある。 手をつけないわけにはい
かないので、家に持ち帰って母に縫ってもらった。 母の日のプレゼントだというこ
とは隠しておいて。 私はクッションを選んだので、スポンジを入れるための袋を作
ってもらったことになる。 子供の単純な考えでクッションの外側真ん中に母のイニ
シャルをアップリケで付けようと思っていたので、これも理由は言わないでその形に
布を切ってもらった。 その全てを後日学校へ持って行き、プレゼント用の包装をす
ることになってたから家にあった包装紙を持って行ってた。周りのみんな特に女の子
は受け取ったらうれしいだろうなっていう可愛くて奇麗なものに仕上げてたけど、私
にできるはずもなく、ただ単に模様に切られた布をアイロンで貼り付けただけで中に
スポンジを入れるという誰でもできることしかやってないクッションを包装紙で覆い
、セロハンテープで留めただけの貧相なものができてしまった。 母に渡して母は「
ありがとう。」と言って使ってくれたけど私は他の子と違ってなんにもしてあげられ
ないことに腹がたって母に申し訳なくて仕方なかった。 私が病気を患い、食事制限
を指示された時は母は責任を感じてたった1mgでも狂わないように毎日毎食カロリ
ー計算をしてノートに書いていてくれた。 結果的にはよろしくないことだったけど
、母が私の体が少しでも回復するようにと必死で計算機とノートとペンを使っていた
姿は今でもしっかり脳裏にやきついている。 こんな母だから学校でも頼られてPT
Aとして常にリーダー格でよく働いていた。 私が休みの時期には母のパート先に付
いて行ってちょっとでもできそうなことがあったら手伝わせてもらったり、昔の私は
とっても贅沢だったから欲しいものがいっぱいあって、手に入れないと我慢できなか
ったからよくおねだりして私の欲しいものを買うためにデパートに一緒に行ってもら
ったりもしてた。 CDとかお菓子とかその時代に流行ってたサンリオのグッズとか
、今思うと無駄遣いなんだけど当時はそうしてくれてたから満足できてた☆ それと
母は“お花の先生”で教えてたことはないんだけど“池坊流”の免許持ってるんだけ
どお花が好きで取っただけみたいだけど、当時実家には母が育ててる植物がいっぱい
あって季節ごとに色が変わって玄関先が華やかだった☆ 母親が我が子にどんなに大
きい愛情があるか、考え始めたのは私が成人になってからだったと思う。 私が年々
原因不明の病に侵されて、あれもできない、これもできないと泣き言を言っていた頃
には「好美が悪いんじゃない、産んだお母さんが悪いんだから恨むならお母さんを恨
みなさい。」と何回言われたかわからない。 でもどんなに苦しんだ時も決して母を
恨む気にならない。 誰が悪いわけじゃないから。 自分が悪いわけでもないから「
なんで!」って腹立たしくはなるけど恨みを持っても矛先がない。 母は責任を感じ
て幼い私を連れて心中しようとしたこともあったらしい。 異常な乗り物酔いやしょ
っちゅう風邪をこじらせて安定しなかった頃の事。 その時に私が母の手を引っ張っ
て「お母さん、怖いよ!おうちに帰ろうよ!」と泣いてたらしく、その悲しそうな私
の顔を見て「この子と頑張って生きていかないと・・・」と思いとどまったらしい。
それと料理が全くできない私のために材料と作り方を簡単に書いたものを持って「あ
んたが一人になった時に自分の好きなものくらいは作れるようにこうやってメモして
おいてやろうと思ってね。」とメモを挿んだファイルを見せてくれたことがあった。
 ほんの5・6年前の事。 その時はまさか本当に一人になるとは思ってなかったけ
ど、そこまでやってくれていたとは知らなかったのでその場ではなんとかこらえたけ
ど、自分の部屋で一人になってから母の気持ちがありがたくて泣いていたこともあっ
た。 
親にもいろいろなかたちがあるけど母というのはかなり我が子に対しては強い責任感
を持っている。 今の私がこうして生きていられて挑戦したりつまづいたりうれしか
ったり路を阻まれたりそれでも頑張ろうと思える理由の原点は母にあるような気がす
る。 父もいないと成立しないけど、《子供を産む》というある意味この世で一番大
きな役目を果たした“母親”の力は計り知れない。 両親のありがたみはわかってい
るつもりだけど、自分が親になってみないとわからない。とよく言われる。 それが
真実なら私は一生わからないことになる。 奇跡が起きて病が治癒しない限り妊娠、
出産ができないから。 でも私は老いてしまった今の母にも常に感謝している。 体
調が優れずに特に求める娯楽や希望もない中で苦しみながら生きているのはどんなに
辛いだろうと思うけど、今でも母が言うのは「あんたが頑張ってるからお母さんも頑
張らないとね。」という言葉。 たまに電話して私が元気でいることを知らせるとそ
れだけで充分な様子。 だからこれからは私が以前の母のようにやるべきことは手を
抜かないでしっかりやること、人に頼られる存在になること。 とても母の真似はで
きないけど、これと言って娘らしいことができないんならこれから先の自分の生活は
自分の力でつくっていけるように努力することが母親孝行になるのかな? 最後に苦
しいお母さんになんにもしてあげられなくてごめんね。 私が立派に独立できるまで
どうか見守っててください。 どんな障害があったって生きていられるよ。 産んで
くれてありがとう。 私のたった一人のお母さん・・・