助け合言ってどういうことでしょうね?

今日は自宅に父が来てくれる日だったので、いつもよりは早く起きてましたよ。 い
つも通りいっぱいお買い物してきてくれて、また母の手料理も届きました。 さて、
ふと思い出したというか、前々から感じてたことを書きます。 これを読んで不愉快
に感じる方がきっといらっしゃるかと思いますが、あくまで私の個人的な気持ちです
から、聞き流してください。 生活が苦しい、それ以前に生きることそのものが苦し
いという『恵まれない人々』が今の時代にも存在します。 『難民』とも言われます
ね。 日本は世界中で考えても裕福な国になっています。(何を持って裕福と言うか
は疑問ですが。) 日本人の中にも自分の手にした金銭を海外へ寄付して「かわいそ
うな子供たちのために・・・」や「苦しんでいる方々のために・・・」ということで
、送る、またはご自身からどうぞお使いくださいと渡される方がいらっしゃいます。
 なかなかできないことですし、その行為自体は素敵なことだと思います。 ただ、
そんな遠くへ目を向ける前になぜ身近なところを見ないのか、すぐそこに困っている
人がいるのに、それを見過ごしてなぜ海外まで手を伸ばすのか、私には納得できませ
ん。 私は埼玉で訓練を受け、ある程度の技術を身に付けて地元へ帰ってきました。
 以前書きましたが、私はまだ若いので都会にあこがれていますから、すぐにでも都
会へ出て、そこで仲間をつくり、不自由感じている誰かの役にたちたいという気持ち
があります。 ですが、私が今の状態になれたのは、地元で背中を押してくれたたく
さんの人がいたからであり、一人でここまでたどり着いたわけではありません。 な
ので、しばらくは、きりが付くまでは地元で行動して、今まで関わってきた方々のた
め、私と同様にいろんなことにつまづいて、助けを求めている人のためになることが
優先されると思い、お世話になった方々には‘恩返し’障害を持ち、何かと悩んでい
る人には‘援助者、相談相手’になろうと現在は努めています。 私は収入がありま
せんので、金銭で助けることはできませんが、町内で、あるいは市内、県内で難民と
までは言えませんが、困っている人は必ずいます。 まずは自分の住んでいるところ
へ助けの手を伸ばすべきだと思っています。 海外まで寄付ができるくらいの力があ
るのならば、その前にぜひ身の周りがしっかり保護されているか、例えば子供たちが
思いっきり走り回れる公園のような場所はあるのか、仕事がなく、ひもじい思いをし
、努力しても職を与えられない家族を養う立場になれず迷っている人がいないのか、
体力の衰えたご老人が精一杯活動できる場所が近辺に設けられているのか、障碍者
不自由を感じた時などにすぐさま対応できる場所はちゃんとあるのか、このような近
場のことを考えて、それらが充実できてから遠方へ手を出すのが適切な順序ではない
かと思っています。 誰しも生まれ育った地域に何らかの恩はあるはずです。 そし
て目の前にしている人が生きていくことに悩みを持っていることは往々にしてあるも
のです。 そして人が自分の心と体を使って人を助けるということには人間の‘情’
ぬくもりがあります。 現金にはその人の気持ちはあるのでしょうが、ぬくもりはな
いと思っています。 莫大な現金は多くの人を一気に救うことができるのでしょう。
 ですがそのお金でできたものは寄付してくれた人のおかげだということは、いつの
間にか忘れてしまい、あることが当たり前になるのが人間の性質だと思いますので、
寂しいものがあります。 これが一人の人と人との支え合いになると、いつまでも交
流は続きやすいですし、触れ合った手の暖かさや見つめ合った瞳、掛け合った声など
は長期にわたって記憶に残るものです。 私自身の経験からそう感じてます。 力が
ある方々にはどうか手近なところへまずは援助の手を伸ばしていただいて、それらを
充実させていただきたいなと願っています。 私も地元で少しはどなたかのお役にた
てているようですので光栄に思っています。 さらに生きる上での力を身に付け、今
よりも実力が上がった際にはもっとたくさんの仲間に出会い、数人ではなく数十人の
方の役にたてるようになるために、地元を離れるかもしれません。 何でも順序があ
るのではないかと思っていますので。