私の思考は曲がってますかね?

私の考え方や行動に感心する人は極僅かだと思います。

それはなぜか、自分でもはっきりとはわかりませんけど

一般的にと言うかありきたりなことを

嫌うのが私ですから。

例えばいじめっ子は悪くて

いじめられっ子は不憫に想われがちですけど

時と場合、どんな関係かによって

どっちがどっちとも言えないように思う私です。

例えば障碍者の結婚は難しくて

できることが奇跡みたいに言われたり

どちらかがいわゆる健常者の場合

障碍者と結婚するなんてなかなかできることじゃないと

健常者を尊敬することが多いですよね。

それならまだいいけれど、中には

障碍者と所帯を持つなんて物好きだななんて

陰口言う人も少なからずいるでしょう。

昔よりは減ったでしょうけどね。

言いたいことはわかるけれど

なんでいついかなる時も

五体満足な方が立場が上になってしまうのか?

例えば会社でも学校でもその他どんな機関でも

地位や名誉にものを言わせてるんでしょうけど

会社なら社長、学校なら校長あるいは教員や生徒会長や先輩

公共の場の責任者や管理人などに

そうじゃない人が意見をすることは

閥を与えられるほどいけないことなのか

そんなに許されないことなのか

確かに年齢が上であれば

それだけいろいろな経験をしてるんでしょうし

そんな地位につくためには

それなりの勉強もしたことでしょう。

でも、それらがいつの時代にも通用するとは限らないわけで

これだけ時代が変化して

人も生と死によって変化しているんだから

どこかで発想を逆転させる必要があるはずなのに

昔から正解とされてきたものを

今でも正解であると固定して

一切改革がないのは世間がつまらない証拠でしょう。

例えば障碍者がピアノを演奏できたり

トライアスロンに挑戦することを

とてつもない出来事のように世間の一部報道機関などが

褒め称えて感激したりしますけど

それってとらえ方を変えて見ると

障碍者は基本そんなことはできない者だ。」

って見下してるからそんな気持ちになるんじゃないのかなと思います。

その人がやってみよう、試してみようっていう姿そのものは

生きる人間としてかっこいいと思うし

私だってできそうなことには挑戦してるつもりだから

否定するわけじゃなくて、それを見て大騒ぎする

世間で言う健常者を私は理解したくない。

テレビやラジオでいかにも活躍してますみたいに

行動してる障碍者を特別な人種みたいに

そこで放送される人だけを素晴らしいと言うのは

あんまりいい感じがしません。

もっと苦労してもっと努力して

でも障害が重いためにやりたくてもできない人

それでも何かに優れていて頑張ってる障碍者はたくさんいるのに

偶偶見た人だけを尊敬して

その人だけを表彰したりするのって

うれしいことなんでしょうかね?

私はある一人の後輩と話したことがあるんですけど

ある番組で視覚障碍者が音感に優れてるとかで

楽器を演奏してるのを聞いたことがあったらしく

後輩は言ってました。

「私だって絶対音感があるから演奏くらいできるよ。」と。

報道とは平等を失わせるものだと感じます。

みんなそれぞれできることも違えば

考え方も違うし、限界も違うわけです。

だから「○○ができるからすごい!」ということでなく

自分の行動可能な範囲を認識して

自分の障害による精神力や体力など

限界をちゃんと把握して

自らが受け継いだ命を誇りに想って

いろんな人や場所と交流する中で

話し合い、助け合い、確かなつながりを持つことの方が

重要で難しいことだと私は思います。

寄付はお金があればできることですよね。

スポーツは特別な持病がなく体力があればできます。

音楽も耳で聞こえて手が使えれば

難しくはないでしょう。

中には聞こえなくても動きづらくても

やってみる人がいますけど

それは素晴らしいと言うよりは

自分の夢を叶えているわけで

褒めるようなことではなくて

「人生楽しんでますね。」っていうことになるのでは?

五体満足であろうと障碍者であろうと

自分で目標を立ててそれに向けて努力して

周囲に評価されるくらいであれば

そういう人達はみんな生きる価値があるし

生きる意味を作り出せてると思います。

障碍者だからすごいわけでもなく

障碍者だから褒められるようなことでもないでしょう。

障碍者なのに・・・」という表現を

日頃から遣う健常者は

本心ではすごいとも思ってないでしょうし

弱い者だと決めているから

そんな言い方になるような気がする私です。

これは私が考えることだから

共感してとは言えないけれど

走ったり、歌ったり、方程式を解く事などよりも

皆に好かれ、助けられ、そして何かを与えることができるという

人間関係をどれだけ膨らませて

どこまで続けていられるかということが

最も難しくてなかなかできないことではないでしょうか?